10.15 – 10.19.2018
at OUTENIN (浄土宗 應典院), a temple of Jodoshu sect located in Osaka, Japan.
(This exhibition was sponsored by OUTENIN.)
2011年に東日本で起きた津波と、福島の原発事故を目の当たりにしてからというもの、私は足元の草や身の回りに生えている木々に関心が向くようになった。名もない草でも季節ごとに花をつけることを知った。私の中から「雑草」という単語が消えた。
バス停の近くに持ち主のわからない桑の木が生えている。毛虫のような桑の実は、薄茶色から緑色に変わり濃い紫色になると、ヒヨドリやムクドリがやって来て、忙しく枝から枝を渡り桑の実をついばむ。鳥たちが夢中になるくらいだから人間が食べても平気だろうと思い、私は思い切って桑の実を一つ食べてみた。美味しい。バスの時間が気になったが、手を伸ばして届く範囲の桑の実を鳥たちと競争するかのように食べた。気がついたら指先が紫色に染まっていた。私はアルバイトに向かうバスの中で紫色に染まった指先を眺め、できれば指を洗いたくないと思った。
桑の実を食べたことをきっかけに、ヤマボウシの実や野生のイチジクの実、山芋の蔦に生えているムカゴの実などを食べるようになった。里芋も植えてみた。自分の中で自然との付き合い方が少しずつ変化していることがわかった。
3年半ほど前に、住宅地の中にある公園脇で切られて間もない切り株と出会った。2,3メートル四方に10本近い切り株が目に入った。切り株の表面は朱色に燃えている。木は切られてしばらくの間は自分が切られたことに気づかずに水を吸い上げる。朱色は切り株の命の色だと私は思った。命を終えようとしている木々と出会ったことで、私は初めて自覚的にキャンバスに向かえるようになった。そして「私の中の命のかたち」と題した展示を大阪の應典院で開くことができた。
私は展示が終わった後も、時間が許す限り切り株のもとに通った。通うというより彼らが刻む新しい何かに寄り添う気持ちだった。寄り添うことで彼らの命の行き先を知りたかった。
伐採されたことで木としての役割というか命を絶たれたはずの切り株だったが、人間には見えない命が生息しているのか、切り株の表面には苔とも違う気泡のような生命体を見ることができた。菌類だと思う。切り株を覆う生命体は季節やその時々の気候によって生存する菌類が違うのか、鼠色であったり墨のようであったりした。梅雨が終わりかけていたある日の切り株は鮮やかで深い紫色の菌に覆われていた。濃い青紫色に覆われた切り株に触れた時、再び命を描きたいという衝動が私の中で湧いてきた。
梅雨が明け乾燥した日が続いていたある日、私は切り株に会いに行った。空気が乾燥しているせいか切り株を覆っていた菌類は消えていた。むき出しになった切り株の表面に、縦横無尽に無数の裂け目が走っているのが目に飛び込んできた。木の中心、木の心臓の場所もはっきりとわかった。部分的にすでに土に戻りかけているところもある。私を驚かせドキドキさせたのは、同じ場所で同じ日に切られた切り株一つ一つの裂け目や表情が皆違っていたことだった。
切り株を覗き込みながら、彼らは土に帰る方法や時間の刻み方を自分で選んでいる。私にはそう思えてならなかった。そして彼らは生き続けている、と私は思った。
この度の展示では前回の展示と同様に、8点の切り株と2点の木の肌の絵を床に置いて展示します。